藤岡 大拙 出雲つれづれ草

出雲つれづれ草 ――― 連載を始めるにあたって

郷土史家  藤岡 大拙

 徒然草(つれづれぐさ)を著した吉田兼好は、意外にも生没年がはっきりしないが、一般には、弘安6(1283)年に生まれ、文和元(1352)年以後に亡くなったとされている。だいたい70歳ぐらいの生涯。当時としては長生きだった。彼は30歳のころ出家遁世(とんぜ)し、比叡山で修行もしたが、後には山を下りて京都で暮らした。
 兼好の生きた時代は、日本史上でもまれなほどの激動期だった。彼が生まれる2年前、モンゴルの大軍が襲来し、日本全土を震駭(しんがい)させた。幸い自然現象も味方して撃退することができたが、以後、武士たちは窮乏し、鎌倉幕府は動揺した。世の中は物騒になり、南都北嶺の僧兵が暴れだす。
 無能な執権に代わって、王道を再興しようとする後醍醐天皇の企ては失敗し、天皇は隠岐へ流される。だが、1年余で脱出した天皇は、名和長年・塩冶(えんや)高貞らの協力によって、足利尊氏を逐(お)って政権を奪取する。建武の中興である。しかし、新政権は二条河原の落書が言うように、悪政でガタガタ。見切りをつけた尊氏は、鎌倉で反旗をひるがえし、以後、60年の南北動乱時代となる。
 兼好はそんな動乱の渦中にある京都に暮らして、世の移り変わり、人心の変化を見つめながら、つれづれにまかせ、「心にうつりゆくよしなし事」を、そこはかとなく書きつけたのである。現代も兼好が生きていた時のような混乱の世の中だ。そんな時代、出雲に住む一人の出雲人が、兼好のように世相を観じて随想を書こうというのである。
 なぜ、出雲なのか。出雲はかつて弥生時代、日本でもっとも繁栄していた。やがて大和朝廷の軍門に降り、一つの地方となった。だが、出雲は一介の地方ではなく、国譲り神話に語られているように、中央権力の対極に位置づけられた特別の「地方」である。以来、敗れた出雲は、ことさら対立的な姿勢をとるようなことはしなかったが、さりとて中央政権に接近しようともしなかった。そこに住む出雲人たちは、優越感と敗北感を同居させながら、中央と一定の距離をおき、ひっそりと暮らしてきた。そして冷めた目で中央を眺めやった。
 そんな出雲に住む筆者が、現代世相を眺めながら、随想をつづろうと思うのである。おそらく、兼好と違った意味で、「あやしうこそものぐるほしけれ」の心情になることだろう。ご期待をこう次第である。


  

出雲つれづれ草インデックスへ