藤岡 大拙 出雲つれづれ草

立ち食い、口飲み

 昔は食べることや飲むことに一定の作法があった。卑しい食べ方をしないためだ。もちろん作法といっても、茶道のような煩瑣(はんさ)な作法ではない。座って食べるとか、茶碗に注(つ)いで飲むといった、ごく当たり前の作法である。
 だが、今やその当たり前の作法すらなくなってしまった。立ち食い、歩き食い、口飲み(ラッパ飲み)が日常茶飯になってきた。アメリカから入ってきたのだろうか、例のハンバーガーとかいうデカイ食べ物を、立ちながら頤(おとがい)が外れるほど大きな口をあけて押し込んでいる。ソフトクリームを歩きながら食べている若者もよく見かける。
 最近はペットボトルという便利な容器ができて、茶でも水でも容易に飲むことができる。会議でもあらかじめ机の上にボトルが置いてあるようになった。まるで、欧米で会議をしているようだ。大学では、講義を聴きながら机上のボトルを飲んでいる学生がいるそうだ。
 不作法なのは学生だけではない。今どき学会に出てみると、発表を聴きながらペットボトルの口飲みをしている人がいる。アメリカ流になったのだ。以前は発表会場に湯茶を持ちこむようなことはしなかった。あまり興味のない発表のときに会場を出る。入口には薬罐(やかん)と茶碗が置いてあって、お茶を飲みながら、師や先輩、友人たちと、しばし旧懐を温めるシーンが見られた。
 立ち飲み口飲みは、古来、日本では不作法であった。子どもたちは、「座って食べなさい」「なんですか、口飲みなどして」などと叱られながら作法を身につけたものである。残念ながらそんな作法は消えうせた。ラッパ飲み、歩き食いが闊歩する世の中だ。「昔のことばかり言っていても仕方がない。すべては時代の流れなのだ」という声も聞こえる。確かにそういう点もある。さりとて、音の風儀を全面的に捨て去っていいのだろうか。そうではあるまい。吉田兼好も言っている。
 「何事も、古き世のみぞしたはしき。今様は、むげにいやしくこそなりゆくめれ」(第二十二段)
兼好の時代は南北朝の激動期だった。それだけに、急激に変わる時代を見て、過去への惜別の念が強く働いた。現代も激動期である。戦乱ではないが、それにも劣らぬ風儀の混乱ぶりである。思想も道徳もなにもかも乱れている。だからこそ、兼好よりもっと強く、「古き世のみぞしたはしき」と叫びたいのである。


  

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