藤岡 大拙 出雲つれづれ草

後ろを振り返る

 芥川龍之介の短編小説に『蜘蛛(くも)の糸』というのがある。昔、カンダタという極悪人(ごくあくにん)が地獄に落された。釈迦が蓮池の間から覗いてみると、血の池の責苦(せめく)にあっていた。釈迦はカンダタが1つだけ善行をしたことを思い出し、そろそろ助けてやろうと思った。善行とは蜘蛛を踏みつぶさなかったことだ。
 そこで、釈迦は1本の蜘蛛の糸を地獄のカンダタの前にたらした。カンダタは喜んで、糸にすがって必死に上っていったが、少し手を休めて後ろを振り返ると、たくさんの餓鬼どもが糸の端にすがりついているではないか。彼は叫んだ。「お前たちは下りろ、下りろ」。とたんに糸は切れて、カンダタは再び地獄へまっさかさまに落ちていった。
 カンダタが振り返ったとき、へばりつく餓鬼どもに、「いっしょに助かろうぜ」と言ったなら、糸は切れなかったろう。自己本位にならず、他人のことも考えるべしという仏教の教えを、龍之介は抹香くさくない巧みな筆致で書いている。
 最近、ドライバーの間で、大名行列という言葉が話題になっている。追越し禁止の国道などで、1人のドライバーがゆっくり運転すると、たちまち後に延々とクルマの列ができる。それを参勤交代の大名行列にたとえたのである。参勤交代の行列もずいぶん通行人を苦しめたが、現代の大名行列も迷惑千万である。
 初心者が必死にハンドルを握っているのなら、それは致し方もなかろうが、悠々とマイペースでやっているのだから腹立たしい。そんな人に限って、バックミラーで後ろなど覗いたこともないのだろう。いや、覗いて見て長蛇の列ができていても、何とも思わないのかもしれない。どこかカンダタに似ている。似ていないのは、こんなことでは、地獄に落ちないことくらいだろう。


  

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