藤岡 大拙 出雲つれづれ草

古き世のみぞしたはしき

 近頃、温泉の男湯へ入ってみると、男が股間(こかん)の一物(いちもつ)を隠しもせずに闊歩している姿をよく見かけるようになった。昔はほとんどの者が手拭で隠していたものだ。酬悪なものを他人に見せまいとする恥じらいがあったからである。今の男たちは、他人のことなど意識していないとみえ、恥ずかしいと思うことのほうがよっぽどおかしい、と思っているようだ。聞けば女湯でも同じような現象だという。「ええ、うそッ!」思わず絶句した。
 いつからこんなことになったのだろうか。戦後、欧米の風俗がとうとうと入ってきてからのことだろうか。体の部位を露出しても、恥ずかしいと感じなくなるのと同時に、社会生活上の羞恥心もなくなっていった。昔の日本人は恥の文化をもっていた。恥とは面目を失うことであるから、人はそれを失わぬように努めたのである。
昔の人は体面を保とうとし、世間体(せけんてい)を重んじ、他人様にとやかく言われないように努力したものだ。ところが、今どきの人は世間体などなんとも思わない。個人を尊ぶべき風潮のなかでは、世間体など前近代的な無用物にすぎないと。なるほど、そういう一面は確かにある。世間体をおもんばかって個人を犠牲にし、泣いて暮らしたという話を聞いたことがある。
 だが、現在はとかく世間体の負の部分が強調されすぎている。だから、良い面もあることを認める必要がある。たとえば、世間体を重んずることで、わがままが抑制され、良好な社会生活が維持されることもある。今どきはやりのフリーター。困ったものだと人は言う。どうしたらな<せるのか。職業教育も必要だが、世間体を重視することも必要だ。
 「あそこの若い人は、卒業してだいぶん経つのに、まだ定職がないそうだ」
この噂話を聞いた人は、その若者はしっかりしていないので職がないのだろう、と思うに違いない。そんな噂をされたのでは、親も本人も面目が立たないから、一生懸命就職運動をしたものだ。これは一昔前のこと。
当今では、そんな考えの人はほとんどいなくなった。わが子が、「しばられるのはいやだから、フリーターをやりたい」と言えば、親は、「おお、そうかい、好きなようにするがいい」と答えるだろう。子どもが定職についていないとて、世間体がわるいとか、恥ずかしいと思う親は少なくなった。本人はもちろん恥など思ったこともないだろう。
 廉恥の心は他人を意識するところに生まれるものだ。今は他人の目を意識しないから、廉恥の心が希薄になり、自己中心的な、気髄気ままな生き方をするようになった。かくして、男が股間の一物を恥かしげもな<ふり歩く程度ではすまなくなった。社会全般が恥を忘れた人間の集合体となってしまった。
ああ、これから先が恐ろしい。「何事も、古き世のみぞしたはしき。今様は、むげにいやしくこそなりゆくめれ」(二十二段)とは、兼好はよくぞ言ったものである。


  

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