藤岡 大拙 出雲つれづれ草

我れ関せず焉〔えん〕(人のふり見て………に改めた)

 「人のふり見て我がふりなおせ」という諺(ことわざ)がある。つまり、人の行為の善悪を見て、自分の行為を反省し、改めなさいという戒(いまし)めである。昔は、人々はこの諺のごとく、他人の行為を見て反省し、自らを矯(ため)なおしたものである。
 ところが、今どきの人間は、他人を自己の成長のために見つめる、などということをしなくなった。他人がどんな立派な行為を行っても、「我れ関せず焉(えん)」なのである。
 笹川左保の著『木枯らし紋次郎』流で言えば、「あっしには、関係ねえことでござんす」とばかり、他人の善行などぜんぜん眼中にないのである。
 昔は率先垂範(そっせんすいはん)などと言って、上の者が黙って行えば、下の者はそれを見習ったものである。現代でも、直接命令することをはばかって、黙ってやって見せ、部下や子どもたちが見習ってくれることを期待する人がいるが、それはむなしい期待である。現代の人々はほとんどついて来ない。つまり真似(まね)しないのである。
 職人の技術でも同じことだ。昔は弟子入りしても、師匠が手取り足取りして教えるようなことはしなかった。技術は盗むものと言われ、師匠は何も言わなかった。師匠のやっているのを傍らでジーッと見て覚えたのである。今はそんな技術習得の方法など通用しない。すべて機嫌をとりながら手取り足取り教えなければならないのだ。
 かくして、子どもの教育がむずかし<なった。昔なら、親のふり見て子どもは真似したものである。正座してご飯を食べる。朝夕神仏を拝む。食前に合掌する。他人に挨拶をする等々、親のやることをみんな真似したものだ。だから、しゃんとした家庭からは、しゃんとした子どもが育ったのである。
 だが、今や家庭において、親がどんなにきちんとした態度で生活していようと、子どもたちは見習おうとしない。だから、家庭教育がむずかしくなったのである。
 今回もまた、「古き世のみぞしたはしき」(第22段)である。


  

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