藤岡 大拙 出雲つれづれ草

刎頚(ふんけい)の交わり

 刎頚の交わりとは、たとえ首を刎(はね)られても、悔いのないほど深い交わりのこと。
 人間関係の極致である。親鸞が「たとひ、法然聖人に賺(すか)され参らせて、念仏して地獄に堕(お)ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(『歎異抄』)と言ったのも同じ心であろう。ただし、刎頚の交わりというときは、師弟のような上下関係より、むしろ同等の関係にある者同士の友情ある交わりを示す。
 一昔前、ロッキード事件に関連して、国会の証人台に立った人が、首相とは「刎頚の友」と言って以来、この言葉は品格を失ったが、本来人間たるもの、刎頚の友の一人や二人、必ずもつべきである。
 兼好法師も、「互いに心おきなく語って、ときには議論をたたかわせるような友がいれば、このうえなくうれしいのだが、そんな友はまずいない。」(第12段)と言っているように、真の友は得がたいものである。今どきのように、人が信じられなくなった社会では、深い友情などなおさら容易に生まれるものではないだろう。
 ところが、兼好は後年になって、友について極めて具体的な像を描いているのである。 (第117段)それによると、友とするに不適当なものが七つあるという。
 第一に高貴な人、第二に若い人、第三に無病で健康な人、第四に酒好きな人、第五に勇敢な人、第六に嘘をつく人、第七に欲の深い人。
 次に友とするに適当なもの三つをあげている。
 第一に物をくれる人、第二に医者、第三に知恵のある人。はて、と首をかしげたくなる点もある。勇敢な人はなぜ友としてはいけないのか。兼好の言う「勇敢な人」とは武士のことであり、武士は殺しあいをするから、友として不適当だというわけである。若い人も友とすべきでないという。おそらく兼好は、「今頃の若いものは……」という現代の年配者たちと司じような気持をもっていたのであろう。
 物をくれる人を友にすべき第一にあげているのは、少々はしたなく、兼好らしくないように思われるが、欲の深いものは友とすべきでないということの反対概念ととらえれば、なるほどとうなずけるだろう。とにかく、彼のあげたものについては、それぞれ理由があるように思われる。
 若いころには、真の友はいないと思っていた兼好も、年をとるにつれて、友とすべき具体的な条件を列記し、刎頚の交わりを求めるようになったのである。さて、現代の私たちも、兼好法師にならって、よき友、刎頚の友を早く作る必要があろう。


  

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